神話は共有できる

「物語は共有できない」
このエントリに惹かれてくれた人が多いようなので。
これは実は「共有できない」ということを言うために書いたエントリではないのです。

TRPGセッションの思い出(re:物語は共有できない) - まりおんのらんだむと〜く+

盛り上がったセッションの話、楽しいですよね。
何年も前のセッション中のくだらないギャグとか、絶妙の間での一言とか、ありありと思い出せますよね。


俺のマスタリングではないですが、敵側の祭壇を見つけてどうしようかとパーティーで相談していました。
すると、ひとりのプレイヤーがいきなり切れ味良く
「じゃぁ、します! うらぁ!」
と宣言し、マスター含め、参加者全員が全員がテーブルに突っ伏したのは忘れられませんw


もちろんタイミングや口調が大事なので文字で書いても伝わるもんじゃないんですが、
(ちょ・・・穢すっておまwww具体的にどうするじゃなくて「穢す」かよw!ナニしてくれてるのコイツwww)
と、各プレイヤーの想像する最悪の穢し方が頭をよぎり、描写しないものの、そのプレイヤーの仕草を見ると明らかに糞尿撒き散らかしたりしてるわけですよwww


確かに具体的にどうするのが信仰上ダメージ出るのかって、プレイヤーよりキャラクターが知ってるに決まってるんですが。
・・・ちょっと話が逸れましたw


この話なんかはそのテーブルの参加者はいつまでも覚えているし、そのプレイヤーを知っている人だと、発言の間や効果が想像できて苦笑できます。
つまり、なにかが共有できています。


そう、実はテーブルトークRPGはストーリーとして進行しますが、参加者が共有するのはゲーム上の事実の羅列ではありません。
瞬間的なシチュエーション、物語の空気感、そして物語が「何を成したのか」という元型‐アーキタイプ‐を共有するのです。
「何を成した」というのは物語の結末のことじゃないですよ。
青春、悔恨、成長、絶望‐なんでもいいんですが、「結局それはキャラクター達(プレイヤー達)にとってなんだったのか?」ということです。
もっとも代表的な例はイニシエーション(通過儀礼)。


もちろんこれらの共有も縁のぼんやりした塊で、同一のものとは言いがたいのですが、確かに重なっている部分がある。
具体的なストーリー上の事実よりもはるかに強く、参加者の魂に刻み込まれている。


「物語」を事実の羅列ではなく、感情と経験の大小の塊、象徴化された神話として捉えたときに、物語は部分で共有されます。
そして、このモチーフ・神話の共有こそがテーブルトークRPGの醍醐味だと思うのです*1

*1:もちろんテーブルトークRPGに限らず世の中の共通体験というのはすべからくこのバリエーションですが。