「物語らざるを得ない」話

正直病気だと思うわけだけれども。


このところよく、なぜ物語るのかについて考えることがある。
どこかで数値化された研究としてまとまってるなら読んでみたい。


世の物語は、すでに一生かかっても読めない量がある。
時代性を反映するという必要性はあるにしても、こんなに多くの物語が生み出され続けられなくてはならないのか。
このあたりをつらつら考えていると、物語は読まれるためのものではなく、語るためのものだと言う事になる。


厳密には語ることと受け取られこと。
そして語り継がれ、元の物語は消えても、部分として引き継がれていくことに意味がある。
とりあえず物語として書いてるけれど、音楽も美術も、生物的な生存を補強する以外の創作行動は全てこの定義かな。



だとするならば。



物語は精神の遺伝子といっていい。
どちらかといえば主従が逆で、
本もビデオも、そして人間も、すべて物語のRNAとして機能している
ことになる。*1



物語るという行為は『物語という生物の生殖行為』だとすると、俺の「物語らざるを得ない」という衝動に説明がつく。


物語ることは癒される行為だとか、人間は物語で生存に必要な情報共有をする必要があるからとか、仲間を確認するためにうんたらとか、そういう理屈はいくらでもつく。
だけど、発生している現象を観測し、科学的単純性の原則
「あることを説明するために導入する仮説は,必要以上に複雑なものであってはならない」
に従うと、物語にまつわる現象は、エドワード・トリファノフによる生物の定義
「変異を伴う自己複製」
そのものであるように見える。



つまり電子ネットワーク中の意識体だとか、そういう人間のアイデンティティーに引き写したわかりやすい存在でないだけで、物語は生命体であり、人間という生物と絡み合って、ずっと存在し続けている。
人間を特別な生物と看做すのは好きではないのだけれど、もしかして、物語という生命と相互補完しながら進化しているというのが人間の特性なのかもしれない。


というか、人間は進化しておらず、人間を宿主として物語のみが進化しつづけていて、そのうち人間のくびきから独立するんじゃないかなあと考えてしまうなど。



まあようするに、



俺の創作行為は俺に絡みついた物語君の生殖行為だから、
孕めコノヤロー
という話?



・・・なのか?w

*1:ああ、つまり語り手とはオスであり、受け手はメスなのか?