純粋TRPGの話-D&Dと不思議の国のアリスと原初的な物語体験-

「〇〇はTRPGじゃない」

TRPGとは〇〇なゲームだ」

ま、古強者は聞き飽きて適度にいなしたり、「うんうんそれもまたTRPGだよね」とかそういう雑な(実は真摯な)応答になりがちですけども、はるをさんの

に触発されて、ちょっと記事を書いてみる。


まず私の「TRPGとは」については

やってみたいと思ってる人に説明するときの
TRPGっていうのは〇〇するゲームで」って
「相手が混乱しない、もっとも短い説明」

が、その瞬間のTRPGの定義だという立場です。

 

「いろいろな種類があって」とか「こういうケースもあって」とか「珍しいものだとこういうのも」とか、全部余分。

相手を混乱させるだけなので。

 

例えば「この動画みたいなの」とかで十分。

そこから入った人が他のTRPGに対して「そんなのTRPGじゃないでしょw」という発言もOK。

学習過程が違うんだから、そこで怒ってもしゃーない。

 

用語が定義されていないと不便という向きにおいては、
「世の中で遊ばれる時間の80%で共通しているものがTRPGコア要素
でいいんじゃないですかね。

要するに、ルールがあって、マスターがいて、複数のプレイヤーが参加して各自のキャラクターを持っていて、戦闘があって、ダイスで判定をする。

物語の始まりがあり、終わりがある。

これらはなくてもいいけど、多くの(というのはルールの数ではなく、プレイ時間シェアで図る)ケースでまだ今は共通でしょう。

 

ソロTRPG?ダイスを使わない?GMレス?ルールレス?ハンドアウトあり?プレイヤーが1キャラクターを担当しない?

戦闘ではなく交渉?恋愛?なりきり?演技?遊びじゃない?リアル肉弾戦?

 

おう、なんでもこい!

 

別に演劇は全部TRPGだ、とか
読書体験はTRPGである、とか
人生はTRPGだ、とかいいだしてもいいけど、
言葉というのは相互理解のためにあるので、より通じやすい言葉を選択するのが適切だとは思います。

 


さて、その上で。

 


成立過程に対する考察とか、自分の体験したことと対策を通じた視点というのは少し書く意味があるかもしれないな、と思いました。

 

D&Dの成立過程から言えばガイギャックスとチェインメイルあたりの話で、ウォーゲームのユニットを個人レベルに落としたと語られるみたいですけど、
それがなければTRPGは存在しなかったか と言えば、
そんなこともないんじゃないかなとは思います。

 

不思議の国のアリスルイス・キャロルがアリス・リデルに即興でつくって聞かせた物語がもとになっているといいますけど、キャロルはひとりでべらべらと話してただけなんですかね。

私には何となく、ボートを漕ぎながら
「うーん、そうだな…
 机の上に小瓶があるよ? おいしそうな飲み物が入ってる。

 アリス、どうする?」
と言っているキャロルが目に浮かぶんですよね。

 

実際にアリスがどれぐらい細かく応答していたかはともかくとして、即興の話を相手に聞かせるときは、相手の表情や反応を伺って内容を調整しますし、小さな子供が自分が主人公として語ってくれる語り手に「ぼくは〇〇する!」って興奮して言うのを、俺は自分の子供達相手に知っています。

 

そしてそのとき、子供たちの目には、本当にその世界が映っています。

冒険に顔は上気し、握りこぶしには力が入り、困った時には指を噛み、危険な描写には身を竦め、悲しい話には涙を流します。

 

 

さて、ウォーゲームの駒を個人レベルに落としたという話とこの話、どちらがいまのTRPGに近いか、というと…

私は「ある条件に対する結果的な折衷案」だと感じます。

 

こどもがインタラクティブな即興譚をやって、何を楽しむかと言えば、
世界が自分の行動でどんどん変わっていくことなんですけど、
ここにはいくつかルールがあって、
① 身近さと驚きと不思議。
② 頭脳的な活動ではなく、身体的な活動描写。
です。

これらを意識して、というよりも、こどもの身体に力が入る話をしようとすると、自然とそうなります。

 

複数人相手にこれを行う場合…

意識して描写量を均等にし、各自の判断(と、リーダー適正などを見ながら)を引き出す質問をしていかないと、楽しさが一部のこどもに集中してしまいます。

他の子もつまらないということもないんですけど、意思決定の配分が偏り過ぎるとやっぱりテンションは上がり切らなくて難しい。

 

ただ、一人に対して即興譚をやった時と、複数人のパーティーに対してやったときは、入り込んだ時の最大深度が違います。

「なかま」と「どうする?どうする?」って困難に対して立ち向かう相談をする表情は真剣で、目はきらきらしていて、「自分たち」がここを突破するんだ、危機を乗り越えるんだ、というモードになった時の小集団は、非常に高い熱量を持ちます。

特に自分の判断で事態が好転したときは、仲間に「有能」であることを認められ、単独では感じられない喜びを得ているのもわかります。

 

 

ところが。

成長に従って、これを邪魔する要素が出てきます。

① 経験とそれに伴う予測
② 「これは『おはなし』」であるという、現実に対する解像度
③ 社会性という「仮面」

です。

 

おそらくですけど、こどもって、ほとんど周りが見えていないし聞こえていないんですよ。

それが成長するにしたがって、視界は広く、クリアに、耳は意味のある音を拾うように、予測する未来は長く分岐は多くなっていく。

 

目の前に置かれた事象に対する予測が正確になるにつれて、
妥当な結果であれば驚きは少なく、
妥当性のない結果であれば作り物感が強く、

──つまりリアリティラインの上昇によって、不思議を楽しめるレベルが低くなっていきます。

 

「いや、俺は不思議を楽しめている」という方はおめでとうございます。

自分が3歳、5歳の頃よりも遊びによってアドレナリンが出ているという方は、本当に幸せだと思います。

 

また、小さい子供の集団は本当にひとつの生物のような、集団から弾かれることが死の宣告になるような一体性がありますが、少なくとも現代社会では大人になるにつれて他者との距離を測ることを強いられます。

一体でなくなった他者の意向を諮らずに「本当の望み」を口にすることは、社会の分断になるので抑制する必要があります。

 

 

TRPGの全てとは言いませんけど、私はこうした子供が示す素直な喜びが、
TRPGという遊びが生み出されてきた本質的な理由じゃないかな?と思うわけです。

 

 

さて、大人になるにつれて減少するこれらの楽しさを補う手段があります。

 

ひとつはサイコロ、カード…遊びの4要素のひとつ「偶然」、つまり乱数です。

現実でありながら予測困難。

かつ予測バイアスによって、実際の確率よりもはるかにデフォルメされた「意外性の快感」をもたらしてくれます。

 

ふたつめは解像度が上がることによるメリットとして、遊びの4要素の「模倣」、実際の戦闘をシミュレートする解像度を上げる快感、のような楽しみも見出せます。

 

みっつめとして、「他者を演じるというルール」によって、赦されないはずの「望み」をかりそめに口にする、実行するという楽しみ。

現実の仮面の上に虚構の仮面を被ることで、衆目にそれを(すべてではなくとも一部を)晒す、束縛からの解放感。

 

さて、プリミティブな即興譚の楽しみは、多くの人の中にあるけれど、成長するにつれて失われてしまいます。

なんとかしてそれを取り戻そうと「こうしたら楽しい」をいろいろ、ゲームの側、物語の側それぞれが模索すると、回答として

「キャラクター」で没入性を保証し、

「ランダム性」でリアリティラインの衝突をやわらげ、快感を補強し、

「ゲームターム」で認識のすり合わせをやりやすする、

みたいな、いまの主たる形式が出来てくる。

 

TRPGがウォーゲームからの発展、というのは歴史上のクローズアップとしては「擦り合わせの接点としてそうした局面が来るのは必然」だったからで、ウォーゲームから派生しなくても、即興譚・口承文芸からも何らかのルートで似たようなものができてたんじゃないかな?とは感じています。

 

いろいろ書いてみましたが、個人的には、この幼少期のプリミティブな快感をなるべく落とさない遊びができないかな?と模索しているという話です。

 

どっとはらい

 

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